C:農業・用水
髙橋水路は1882(明治15)年に計画され、翌1883(明治16)年2月に工事が始まり5月に完成した。1908(明治41)年から1911(明治44)年にかけて矢作川の取水口が大改修された。明治・大正期に高橋用水の完成・改修に尽力したのは衆議院議員の早川龍介と六ツ美村の初代村長であった鍋田恒雄の2人である。髙橋町の取水口にある記念碑(1919(大正8)年)には鍋田恒雄の名前が発起人の一番初めに刻まれている。
耕地整理は明治期の農村の進歩性を代表するものの一つである。1899(明治32)年に耕地整理法が発布され、愛知県においては翌1900年国庫補助金を、主として耕地整理奨励にあて、各郡、1個所ずつ模範耕地整理地区を設置する計画をした。それを受け、1900(明治33)年11月六ッ美の中島が愛知県下に先駆けて施行をした。なぜ中島かと言うと、その背後には郷土の偉人であり衆議院議員であった早川龍介の存在があった。彼は1885(明治18)年農事視察研究で北米に渡航し耕地整理の必要性を痛感していた。その後、国会での金子農商務大臣の耕地整理法案通過に最大の努力を払い、全国に率先して自らの郷土中島の耕地整理を計画した。
これらの努力が認められ、1915(大正4)年、大正天皇即位の大嘗祭を行うにあたり、儀式に用いる新米を収穫するために京都より東日本を悠紀(ゆき)、西日本を主基(すき)として2つの斎田を選定した。六ツ美がこの悠紀斎田に選定され、六ツ美発展の礎になった。
大正4年の髙橋用水の写真をどうぞ!(悠紀斎田へ水を供給)
大正10年の占部用水の写真をどうぞ!