A:地方史・人物史
地方史については、三河国、碧海郡を中心に述べ、関連する記述を幡豆郡、額田郡の歴史書から引用した。日長社(岡崎市中島町)の社伝によると、昔、六ツ美南部は海中の島で、葦が茂った葦島であった。その後、しだいに開け、日久良志の里と呼ばれるようになり、当地を「日奈加島」と云ったという。第26代継体天皇の御代(507年~531年)、当地が開拓され、五穀豊穣・人民繁栄の守護人として日向国笠狭御崎の神を勧請して日長神社を創祀、日長の宮と呼ばれたという。大宝年間(701~704年:奈良時代以前)以前は、この地域は、「青見」(あおみ)と表記されていた。「新撰姓氏録」(815年)には、「持統天皇(645~703年)の御代、参河国青海郡」と表記されている。古代木簡によれば、「青見」は青見評(あおみのこおり)にあった青見里(あおみのさと)とされているが、命名の由来は不明である。青見里は、現在の安城市付近にあった里の名前である。後に、「青見」(あおみ)から「碧海」(あおみ)へと表記が変遷したと考えられている。
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